紅餅と花飴 「お菓子の窓からのぞいたら」第26回
今年の夏は蒸し暑い日が多かったように思います。そんな天候も、紅をとるための、紅花の発酵には適しているようです。今年、旧米沢藩領である山形県の白鷹町に紅花摘みに行ってきたという友人と、紅花の話に花が咲きました。
紅花から抽出された希少な「紅」「本紅」は、着物だけでなく、ごくわずかですが、献上菓子だった名菓などに使われています。菓子に紅を使うようになったのはいつ頃からでしょうか? 江戸時代の菓子屋の商品カタログともいえる菓子絵図帳をみると、江戸時代後半からのようです。それまでは、菓子の赤は小豆色でした。小豆汁で染めたおこわを赤飯と呼ぶように。餅も小豆を搗き入れたり、染めたりして、紅白にしたわけです。小豆の赤は魔除け、厄除けの意味を持ちました。
一方、紙や布の染料として、紅花は古くから使われました。奈良・東大寺や薬師寺の供花、京都・石清水八幡宮の御花神饌などは、和紙を染め、花をつくりました。なかでも薬師寺の供花には、紅花、キハダなど薬効のある染料が使われたため会式が終わると、氏子に分けられ、病の時には、花びらを煎じて飲んだのです。
チベット医学でも、紅花は薬草のひとつですが、黄色の染料としてのほうがよく知られているそうです。紅花の99%は黄色色素ですから、当然なのですが、日本では黄色をどうしたのだろう? と疑問に思いました。なんと、洗い流し、捨てていたのです。金よりも値打ちがあると言われた紅をとるためでした。
山形県の最上川流域は、江戸時代に紅花の一大産地となりました。最上紅花は、酒田から北前船で出荷され、京紅となりました。帰りの船に乗ってやって来たのは、紅花で染めた装束のお雛様などでした。紅花で財を成した旧家には豪華なお雛様が今も残されています。
江戸時代の紅花加工の工程は、まず朝摘みの紅花をザルに入れ、川で水溶性の黄色色素を洗い流した後、たらいに入れて足で踏み(今は洗濯機で脱水)黄色を抜いた後、ムシロの中で寝かせ、発酵させます。少し粘るくらいになったところで、餅搗き同様、杵と臼で搗いて(今は餅搗き機を使用)、丸餅にまとめ、ムシロに並べ「紅餅」(花餅)のできあがり。さらに長期保存が可能なように、紅餅をムシロではさむように踏んで、せんべい状に伸して天日干しに。できた「紅餅せんべい」は、和紙袋に詰められ、出荷されました。餅だ、せんべいだと、まるで菓子づくりのようです。
ムシロに紅餅が並んだ様子は、その1年の幸せを約束する光景だったのでしょう。この紅花とムシロを、飴と和紙で再現した「花飴」(盛飴・旗飴とも)がありました。紙に薄紅色の直径3センチほどの平たい飴が30個ほど貼り付けられていたそうです。正月の初市に、市神さまに供え、また、売られました。この飴は、紙の裏側から舌でなめると、自然にはがれました。そんな可愛らしい「花飴」も昭和の中頃には絶えてしまったのですが、少し前から復活したようです。飴が並んだ紙を振り分けにして、中央を棒にはさみ、旗のようにして売られていた様子が再現されています。現在は「旗飴」と呼ぶようです。無色の飴なので、元の意味が薄れているのが少し残念ですが、復活を喜びたいと思います。
長岡の市民に親しまれる大手饅頭をつくる「紅屋重正」の「紅屋」の屋号は、藩主牧野忠雅公の意向もあり、紅を扱うようになったことからだそうです。明治18(1885)年の「菓子製造下帳」には、「紅 六匁 二四銭」や「細工紅 四匁 十六銭」などとみえ、菓子にも使っていたことがわかります。
「お菓子の窓からのぞいたら」第26回 新潟日報2016年9月29日掲載
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