大坂の陣と「冬夏」  「お菓子の窓からのぞいたら」第33回

 

薄い和紙に包まれた、白一色の「冬夏」。弘前・大阪屋製



 「大坂冬の陣、夏の陣を忘れるな」と伝えられる菓子があります。その名は「冬夏」。店の名は「大阪屋」です。
 青森県弘前市の老舗「大阪屋」は、寛永7年(1630)に創業。豊臣家の家臣であった初代が津軽藩主を頼っての弘前入りだったそうです。 
藩主・津軽信牧の最初の正室は石田三成の娘でしたが、幕府にはばかり、徳川家からの正室を迎えていました。しかし一方で、弘前城内には、密かに豊臣秀吉を祀っていた館神跡が残ります。信牧は洗礼を受けていたとも言われ、配流のキリシタンや豊臣方浪人も受け入れました。岡山藩主で秀吉の養子でもあった、宇喜多秀家の家臣らが住んだ備前町(旧名)も、お堀の中にありました。 
その弘前城から、北前船が着く鰺ヶ沢までの「鰺ヶ沢街道」は、弘前藩のシュガーロードでした。鰺ヶ沢には大阪屋の砂糖を扱う出先機関のような菓子屋があり、砂糖をたっぷりはいた「浪花煎餅」が名物でした。
 私が初めて弘前へ出かけたのは、ほかならぬ「冬夏」を求めてでした。ある日、何気なくめくっていた冊子にみつけた「冬夏」の写真に、子供の頃親しんだ「ふきよせ」が重なりました。なぜ弘前に? と思うと、いてもたってもいられなくなったのです。
「ふきよせ」とは、簡単にいえば、砂糖を着せたあられです。「冬夏」はその極上品で、大阪屋では、今も江戸時代の製法を守っています。まず、砂糖を搗き込んだ寒餅を数か月ねかせて「かるやき種」をつくります。その白く美しい種を、岡山県の津山藩では、献上菓子「初雪」としました。
かるやき種は、炒るとふっくら膨らみます。冷めないうちに砂糖蜜に浸し、粉砂糖にとって出来上がり。口に含むと、最初はさっくり歯ごたえがありながら、すぐにカシューッと溶けて消えます。
「冬夏」は一般には禁じられた「御留菓子」でしたが、越後の「ふきよせ」は、一般に広く浸透していったようです。年配の方は「おいしかったわよね~ほんのりお醤油風味で」とおっしゃいます。
越後での「ふきよせ」を追ってみると、地誌「越後名寄」(1756)に、「浮ル焼」の名で載ります。また、長岡の大和屋では、「紅吹きよせ」を藩主・牧野公へ納めていますし、紅屋重正には、明治時代の日常的な製造記録が残っています。
さらに、大正時代から米菓製造が急成長した小千谷市片貝町では、今はなき吉万などが「ふきよせ」をつくりました。その片貝から柏崎へ出て、機械製造に早くから取り組んだ新野屋が、今も類似の商品をつくっています。
 種をつくり、御注文を待つ「冬夏」でしたが、製法を伝え残すべきと考え、近年店売りに踏み切ったそうです。それまでには、農薬のせいか種が膨らまなくなり、中断した時代もあったそうです。
そのように繊細な「冬夏」が、江戸の御用菓子商・金沢丹後の文書に、「ふきよせ」とともに載っています。
金沢丹後といえば、石田三成とともに豊臣五奉行のひとりだった、増田長盛の子孫にあたります。子孫が書いた「江戸菓子文様」によれば、増田家は大坂の陣後、加賀藩に身を寄せていますが、そこには、加賀前田家の豪姫を正室とした宇喜多秀家の旧臣らもいたのです。増田家はその後、神奈川県の平塚で名主として続きました。平塚の増田家墓所を訪ねると、一族の墓の中に、江戸に出て金沢を名乗り、砂糖細工で名高い金沢丹後への道をひらいた金沢三右衛門の名もみえました。
一方、弘前の大阪屋は、藩主に系図を差し出した後は、福井和泉を名乗り、御用菓子舗を勤めましたが、大坂時代の名は不明のようです。


「ふきよせ」の名残の菓子2種。柏崎・新野屋製

時計回りに、和紙に包まれた冬夏、韓国の油菓、オレンジが柏崎の幸福あられ


 11月から新年にかけては、ヒトの形をはじめ、独特な形のパンがつくられ、ブリューゲルなどのフランドル画家がそれらのパンや菓子を描きました。たとえば、お包みのような形のパンには、「パタコン」と呼ばれる陶製のメダルをのせて焼きました。パタコンとは、メキシコ産の銀で鋳造された、スペイン帝国のレアル銀貨の愛称でした。
この頃、メキシコの銀の精錬技術は他を圧倒していました。フィリピンからメキシコへ帰還中の船が難破し、日本に10か月間の滞在を余儀なくされたスペイン人貴族に、徳川家康は、銀山鉱夫50人の派遣を依頼したほどです。そのことは、当のビベロが「日本見聞記」(1609)で、スペイン王へ報告しています。
 銀貨と同じくパンにのることになったもう1つのものが、タバコのパイプでした。
ドイツのライン川流域で、11月13日の聖マルチンの日に食べる、「ベックマン」というヒト形パンは、なぜかパイプを持っています。冬のヨーロッパでは、ヒト形パンは珍しくないのですが、ベックマンだけがパイプを持っているのが不思議でした。 
そこで、後回しとなっていたタバコやパイプのことを調べ始めると、またもメキシコが浮上したのです。
 パイプのふるさと、メキシコの古代マヤの習俗を記録した絵文書には、人の死の場面で、神官たちが柄の長いパイプから煙をふかす様子が描かれています。タバコは、人の生死にかかわる時などに用いられる薬草だったようです。
そのタバコも、スペイン人により呪術的な要素を排除され、贅沢な嗜好品としてフランドルへ陸揚げされました。そこから内陸部への物流を支えたのがライン川でした。流域では白土がとれたため、クレイパイプの産地がいくつもできました。ベックマンが持っているのは、この白いクレイパイプでした。
最近、ウイーン菓子を教えるオーストリア人の友人が、やっと手に入れたと言って、古いオーストリアのパンの本を見せてくれました。驚くことに、その口絵の写真には、パイプそのものをかたどったパンがあったのです。
ライン川上流に当たるオーストリアのチロル地方では、木彫や陶製の立派なパイプがつくられました。写真のパンの形は、まさにそのチロルパイプで、12月6日の聖ニコラウスの日の贈り物パンでした。
ヒト形パンは、年の変わり目に現れる、再生のおまじないパンで、日本の「年玉」に当たります。年玉は元来、丸い餅でした。玉は魂で、新しい命をいただくおまじないの餅なのです。銀貨やパイプ付きヒト形パンは、豊かさへの願いが添えられた年玉といえそうです。

「お菓子の窓からのぞいたら」33回 新潟日報2016年11月17日掲載


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