はっちょう紙と鏡餅   「お菓子の窓からのぞいたら」第34回

 しめ縄と福助のはっちょう紙と、目出鯛のキリサゲ

  

「はっちょう紙」をそろそろ切りはじめようかという方もいらっしゃるでしょうか。

正月の鏡餅や神棚、松飾りなどにつけられることから、餅紙、三宝紙、お棚紙、きりさげ、お飾り紙などの呼び名もあるようです。最近は赤い紙をあてるなどしますが、私が子供の頃は、白一色でした。わが家は自家で切るということはなく、暮れの市でしめ飾りなどと一緒に買いました。

ご自分で切る方にお会いしたくて、ずいぶん前ですが、魚沼市堀之内の方のお宅へ伺ったことがありました。前年に切ったものを型紙にして切り継いできたそうで、次第にあいまいになった線にこそ、代々の家人の苦心が忍ばれ、感じ入りました。宮城県などでは神職が切りますが、越後では、家長などの手で切られ、伝えられてきたのです。

そんな親しみのある「はっちょう」という言葉を、思いがけないところで耳にしました。栃木県鹿沼市の生子神社です。氏子で神饌づくりや餅搗きも行っていた頃は、ハッチョウと呼ぶシメを張った臼で餅を搗いたのだとか。

ハッチョウジメは、シデを付けたシメ縄のことで、関東圏では広くあるようです。竈神さまの棚に毎年ハッチョウジメを重ね張る例もあり、それが山形県置賜地方の「おたなさま」と同じ祀り方であることが気になりました。

「おたなさま」とは、旧上杉米沢藩領の旧家に多く伝わる家庭内の祀りで、旧暦10月10日、つまり今頃に行われてきました。祀り方は家によりさまざま。古くは、外部の人間の目に触れない納戸や天井裏に祀られました。

各家に共通なことは、ご神体はなく、のれんのような切り込みだけの切り紙や、シデ付きのしめ縄を、毎年張り重ねていくことです。お供えは搗いた餅や尾頭付き、鮭の一のヒレなどと聞くと、越後の年神さまみたいで、とても親近感がわきます。

というのも、置賜地方の中でも米沢市の笹野観音の辺りは、越後与板衆が住み着いた地域なのです。会津、米沢へと移った後、上杉本藩の米沢移封に合わせ、米沢城下を立ち退いて笹野へ。先祖は直江兼続の家来だという方もいらっしゃいますが、今のところ、はっちょう紙などの言葉は聞かれないようです。

先にあげたハッチョウジメを張った臼で餅を搗く、生子神社の1月の「日の出祭り」は、病で亡くなった幼子が息を吹き返すという再生伝説を始まりとしていました。

太陽暦のリセット、1年の終わりと初めの切り替えの時を、人の生まれ変わりに例えることは古今東西同じです。古来ヨーロッパでは「時の翁」を家庭内で演じることがありました。たとえばこんな風に。

大晦日、親族が集まって過ごしていると、真夜中に突然、ゴルフパッドを大鎌に見立て、シーツをまとった老人(翁)が現れます。すると、玄関の外で鳴き声を上げるのは、シーツでぐるぐる巻きの赤ん坊。老人は赤ん坊を家の中に入れ、去っていくというもの。翁=赤ん坊で、年の再生「あらたまり」のまがまがしい瞬間の「秘儀」が、家長らの扮装であっけらかんと行われるのです。この「秘儀」を受けた一同がともに食べるお祝いパンは、先々週ご紹介した、お包み形です。パンのほうは残りましたが、家庭の寸劇は、教会のキリスト生誕劇などに代わってしまったようです。

日本で「あらたまり」を象徴するのは、鏡餅です。その敷紙さえも切り紙を使うのは、越後独自のスタイルです。

「あらたま」を寿ぐ年棚などを祓い清め、魔を除ける役目が「はっちょう紙」ならば、方位を司る「八将神」や「八方除け」にも通じるように思われ、中国古来の手をつなぐヒト形の厄除けの切り紙などにも注目しています。

ヒト形の切り紙。赤は中国(東西南北と中央を守る5人の子供)。白は右下から時計回りに、宮城県「八将神」(8体並べて下げる)、メキシコ・マヤの神像、高知県物部村・いざなぎ流御幣、ポーランドのヒト形

「お菓子の窓からのぞいたら」34回 新潟日報2016年11月24日掲載




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