「はっちょう紙」と鏡餅

 

左から福助のはっちょう紙と鯛のキリサゲ。


「はっちょう紙」をよく知っているつもりでも、起源や名称の由来となると、さっぱりわかりません。正月の鏡餅や神棚、松飾りなどにつけられることから、餅紙、お棚紙、きりさげ、お飾り紙などの呼び名もあるようです。私が子供の頃は、裏に赤い紙などあてず、白一色でした。すでに家長が切るなどということはなく、暮れの市でしめ飾りなどと一緒に買いました。

ご自分で切る方にお会いしたくて、ずいぶん前ですが、堀之内の方のお宅へ伺ったことがありました。前の年に切ったものを型紙にして切り継いできたそうで、次第にあいまいになった線にこそ、苦心が忍ばれ、感じ入りました。

そんな親しみのある「はっちょう」ということばを、思いがけないところで耳にしました。栃木県鹿沼市の生子神社です。氏子で神饌づくりや餅搗きも行っていた頃は、ハッチョウと呼ぶジメを張った臼で餅を搗いたのだとか。

ハッチョウジメは、シデがついたしめ縄のことで、関東圏では広くあるようです。竈神さまの棚に毎年ハッチョウジメを重ねつける例もあり、それが山形県置賜地方の「おたなさま」と同じ祀り方であることが気になりました。

「おたなさま」とは、旧上杉米沢藩領の旧家に多く伝わる家庭内の祀りで、旧1010日、つまり今頃におこなわれてきました。祀り方は家によりさまざま。搗いた餅や、鮭の一のヒレをあげる家もあるといわれると、越後の年神さまみたいで親近感がわきます。置賜地方の中でも米沢の笹野観音の辺りは、越後与板衆も住み着いた地域です。会津、米沢へと移り、上杉本藩が米沢に移封後は、米沢城下から移ったという笹野には、先祖は直江兼続の家来だという方もいらっしゃいました。

「おたなさま」は古くは、外部の人間の目に触れない納戸や天井裏に祀られました。明治以降、次第に表の座敷などに移されているようです。共通点といえば、ご神体は特になく、毎年切り紙やシデ付きのしめ縄を幾重にも張り重ねていくことのようです。

先にあげたハッチョウジメを張った臼で餅を搗く、生子神社の「日の出祭り」は、病で亡くなった幼な子(太陽)が息を吹き返すという再生伝説を始まりとしていました。

幼な子や命の再生と聞くと、思い浮かぶのは、古来ヨーロッパにあった「時の翁」です。それを家庭内で演じることが少し前まであったようです。たとえばこんな風に。

大晦日、親族が集まって過ごしていると、真夜中に突然、ゴルフパッドを大鎌に見立て、シーツをまとった老人(翁)が現れます。すると、玄関の外で鳴き声を上げるのは、シーツでぐるぐる巻きの赤ん坊。老人は赤ん坊を家の中に入れ、去っていくというもの。翁=赤ん坊で、年の再生「あらたまり」のまがまがしい瞬間の「秘儀」を、家長らの扮装であっけらかんと行われるのです。この「秘儀」を受けた一同がともに食べるお祝いパンは、先々週ご紹介の、お包みの赤ちゃんのような形をしています。パンのほうは残りましたが、家庭の寸劇は、教会のキリスト生誕劇などに代わってしまったようです。


ヒト形の切り紙は、赤は中国の東西南北と天を守る5人の子供が手をつなぐ切り紙は。白はポーランド

日本では、年の「あらたまり」を象徴するのは鏡餅です。その餅の下に敷く紙が切り紙というのは珍しいことなのです。はっちょう紙は、「あらたま」の空間を祓い清め、魔を防ぐ結界の印でしょうか? また、中国や東北などにも、連なるヒト形の切り紙もあることから、方位を司る「八将神」も頭に浮かびます。 

越後の民間でひろく切られてきた切り紙は、越後独特のスタイルです。それが何を表すのかわからなくても、切る人、飾る人がいて、続けてきたことこそ、素晴らしいと感じています。

「お菓子の窓からのぞいたら」34回 新潟日報2016年11月24日掲載

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