朔と祓 「お菓子の窓からのぞいたら」第35回
神棚脇の壁に張り重ねられた「キリハライ」。
12枚の切り紙を1枚につなげてある。米沢市の個人宅 (写真提供=守谷英一)
上越市高田では「川渡り餅」の日です。搗きたての餅を餡で包んだ「川渡り餅」は、縁起ものなので、食べないとなんとなく落ち着かない、という方も多いようです。その名は、上杉謙信が合戦前夜に餅を配り、兵士と心をひとつにしたことにちなむようです。
「鞭声粛々夜河を渡る」という頼山陽の有名な漢詩があります。川中島の戦いで、武田勢の陣中から上がる煮炊きの煙の量で、敵の動きを察知した謙信率いる上杉勢が、敵に気づかれぬよう、新月に近い暗闇の中、静かに川を渡る場面を表したものです。子どもの頃、父が時々口にしたこの漢詩を、意味もわからず耳で覚えていましたが、この川を渡る逸話に「川渡り餅」は結びつけられていたようです。
似たような話は、広島の毛利氏にちなむ「川通り餅」にもあります。というのも、12月1日は、もともと「かびたり朔日」といわれ、川に餅を供え、水難除けを祈る日でした。高田では謙信公由来とされることで、かびたり餅の風習が残ったといえます。
「かびたり朔日」の朔日ですが、「朔」の一文字でも「ついたち」と読み、ヘンの「屰」は、「もとへ戻る」を意味します。月が元へ戻ることを「朔」といい、旧暦時代ならば、朔の夜は新月で、粛々と過ごす祓の日でした。12月朔の「かびたり朔日」、正月朔の「元旦」、2月朔は新潟県独自の「犬の子朔日」というように、「朔」は暦のなかで、強く意識されていたわけです。なかでも正月朔は、年も月も、元に戻る「あらたまり」の日でした。
前回、新潟の「はっちょう紙」は、「あらたまり」の場を祓い清めるものと考えましたが、正月の切り紙を、ズバリ「きりはらい」と呼ぶところがあります。上杉謙信公の御霊も眠る、山形県米沢市を中心とした置賜地方です。
「きりはらい」の最大の特徴は、祓いとは裏腹なようですが、毎年張り重ねることです。正月のお飾り一式は、どんど焼きなどで焚き上げることが一般的ですが、「きりはらい」は重ねていくのです。重ねられた下のほうの紙は煤けて威厳があり、旧家の歴史を物語るようです。前回も触れた、旧上杉藩領の旧家に多くみられる旧暦10月10日の「おたなさま」の切り紙の張り重ねが、正月の切り紙にもみられるわけです。
家長の手になる「おたなさま」の簡素な切り紙に対して、正月の「きりはらい」の方は、図案が細かく、型紙を使い神職が切るとのこと。同じく神職の手になる宮城県の切り紙の様式に似ています。米沢は、上杉藩移封まで伊達藩領だったため、その影響も考えられるかもしれません。しかし、張り重ねに関しては、米沢周辺だけの風習のようです。
その「きりはらい」の図案には、鶴亀・鯛・扇・鳥居・馬などのほか、農作業の図もあります。そして、どの図案も周囲に枠がついています。枠を合わせるように、複数枚をつなぎ合わせています。宮城県でも、大きな紙を使う前は、個別の図案を貼り合わせていたともいわれ、古式を残しているのかもしれません。
「はっちょう紙」は、枠を意識していませんが、枠を残す切り紙は他にもあります。日本では、神楽の切り紙です。神さまを招く場を祓い清めるように、四方に張ったしめ縄に、切り紙が並び下がる様子は神々しいものです。その神楽から派生した能楽のなかでも、正月に舞われる「翁」は、舞台にしめ縄が張られる特別な演目です。
かびたり餅の風習を今に残す越後高田では、江戸時代から「翁餅」(現・翁飴)が多くの店でつくられてきました。米飴とテングサ液、言い換えれば、大地と海のしたたりをひとつに合わせた方形の「翁餅」は、「あらたまり」の護符のようです。
「お菓子の窓からのぞいたら」35回 新潟日報2016年12月1日掲載
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