「まがり」と「結び」 または、 油の中に描く製法  「お菓子の窓からのぞいたら」第29回


左はインドの「ジャレビ」。サフラン入りの生地を揚げ、シロップにつけてある
右は京都・賀茂御祖神社の式年遷宮記念の販売用「ぶと・まがり(上)」宝泉堂製。社寺によりかたちは様々。


先週ご紹介したチベットなどの油で揚げる菓子は、近世までの日本では大陸伝来の唐菓子があるくらいでした。

宮中や社寺の供物となった唐菓子は、日本古来の供物と互いに影響を与え合いながら、長く続いた神仏習合のなかで定着しました。しかし、明治初めに廃仏毀釈があったために、現在は主に神社の神饌として残っています

大阪の住吉土人形に、住吉大社の神饌で、米粉でつくって揚げた「ぶと・まがり」を象ったものがありました。その実物を見せていただくため、郷土玩具に関するご著書も多い郷土史家のお宅を訪ねたことがあります。そのお宅は、大阪と京都の境に当たり、古くからの水陸交通の要衝だった大山崎(山崎)にありました。目当ての「ぶと・まがり」を手にとらせていただき、また、大山崎には大きな油座があったことなども教えていただきました。

住吉が発祥とされる菜種油が量産される江戸時代までは、油といえば、荏胡麻油が主でした。そして、油は第一に社寺の灯明として使われたため、大きな社寺には油を生産する集団ができました。大山崎も、平安末期頃から、隣接する石清水八幡宮に油を納めていたことに発し、中世には最大の油座となりました。

その大山崎で、紀貫之は「土佐日記」(935年頃)の中に、任地の土佐から、いよいよ京へ戻る実感とともに、次のように記しています。「京へ上るついでに見れば、山崎のこひつのゑもまがりのおほちのかたも変らざりけり。」

山崎の小櫃の絵も、「まがり」のほら貝形も以前と変わりがない、と解釈できるようです。諸説あるのですが、たとえば、江戸時代初期の「土佐日記付注」(1661年)にも、「山崎よりほら貝のなりなる餅を油揚げにして京都へ出すなり。東寺にて稲荷祭の時、これを供ず」とあります。

また、京都の八朔行事には、唐菓子の「索餅」とよく似た菓子を藤の花の絵櫃に入れて贈る風習もあり、絵櫃のほうも気になります。いずれにせよ、大山崎油座は、日本の唐菓子の発展に関わっていたようです。


チベット仏教の国ブータンの寺に供えられた供物の山。

なかに金型を使った揚げ菓子もみえる(写真提供=ヤクランド)


大陸でもそれぞれ発展がありました。チベットでは手細工をした生地を油で揚げるものが主ですが、ゆるい種生地を細く、熱した油に注ぎ入れ、複雑な造形を作り出すものもつくられてきました。たとえば、チベットの吉祥紋で、永遠を表す「結び(エンドレス・ノット)」の文様を幾重にも描くように生地を注ぎ入れることで、大きく立派な供物をつくることができるのです。それはお正月など特別な日の供物に使われます。これとよく似た揚げ菓子が、オーストリアの南チロル地方では結婚式の祝い菓子としてつくられてきました。

ネパールでも花嫁さんの菓子として、豆粉や小麦粉生地で花形に描いて揚げ、白く摺った砂糖蜜を着せた「ラカマリ」がつくられました。もっとラフにらせんを描くように揚げて、シロップにくぐらせる「ジェリ」は、お隣インドの「ジャレビ」と同じです。油の中に描く製法そのものは原始的でもあり、たちまちかたちとなって現れる様子を見るのも楽しいため、屋台などでも人気の菓子です。

これらは1つ1つ油に描いていくわけですが、同一デザインの菓子がたくさん必要になると、型が登場しました。現在、揚げ菓子用の長い柄付きの金型でつくる菓子はヨーロッパはもちろん、アジア、アフリカでも活躍しています。  

ところが日本では、よく似た形状の、饅頭などに押す焼き印はあるのですが、揚げ菓子用の金型はありません。そんな日本で最も親しまれてきた、油で揚げた供物は、お稲荷さんでおなじみ、その名も「油揚げ」というわけです。

「お菓子の窓からのぞいたら」第29回 新潟日報2016年10月20日掲載 



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