ちちらあと 「お菓子の窓からのぞいたら」第31回

メキシコの3種類の飲み物。
右から、トウモロコシ粉の「アトレ」、チョコラーテ入りアトレ「チャンプラード」、「チョコラーテ」
 

「ちちらあと」というへんてこりんな名前の南蛮菓子が、江戸時代初期の「南蛮料理書」の中に出てきます。この菓子は胡麻と砂糖を主材料にしたもので、その後「ちくう糖」などとも呼ばれました。私はこれが、飲む「チョコラーテ」(スペイン語でチョコレートの意)と関連しているのではないかと思っています。

日本ではチョコレートを飲むことになじみがありません。日本で親しまれるココアは、19世紀になり、オランダのヴァン・ホーテンがチョコレートの原料のカカオから脱脂に成功したことで生まれました。しかし、中米のマヤ・アステカなどでは、古代よりカカオが飲まれていました。

カカオは、神事には欠かせず、王の飲み物でもありました。トウモロコシ、唐辛子やバニラなどを加え、高い位置から注ぐことで泡立てて飲んだようです。神事の際には、アチョーテ(ベニノキ)の実を入れて赤く染めました。生贄の血に似せるためもあったようですが、アチョーテは、今も祝い料理の色づけなどに使われています。 

マヤ・アステカをはじめ、中米の人々の主食はトウモロコシです。トウモロコシは、カカオより一足先に、コロンブスによりヨーロッパへ持ち込まれると、世界中に浸透しましたが、原産地は中米です。トウモロコシやカカオは脚付きの石板の上で石棒を前後にころがすようにして挽きました。トウモロコシの練り粉をバナナの葉で包んで蒸し焼きにする粽のような「タマレス」や、トウモロコシ粉を湯に溶いてトロリとさせた葛湯のような飲み物「アトレ」は、今もメキシコ料理の定番です。ちょうど11月1、2日がメキシコのお盆に当たるのですが、先祖を祀る祭壇には、これらの料理が欠かせません。

葛湯のような「アトレ」にカカオを混ぜたものは「チャンプラード」と呼ばれました。その後、侵略者であるスペイン人が持ち込んだ砂糖栽培の大規模農園化が進むと、粗糖やシナモンを加えたチョコラーテも飲むようになりました。

飲むチョコラーテは、毎回豆から挽いて飲むわけではありません。湯や牛乳に溶かすだけで飲めるように、砂糖やシナモンとすり合わせ、板状や円盤状の塊にしておきます。この飲むための塊もチョコラーテと呼ぶので、日本で「ちちらあと」と記録された可能性があると思っています。

バルセロナの飲むチョコラーテ。1回分の包みは「ピエドラ(石)」と呼ぶ

チョコラーテは海を渡り、まずスペイン・カタルーニャの港町、バルセロナあたりから修道院へ持ち込まれました。カタルーニャの修道院には1534年の記録があるようです。そして、修道院経由で広まっていきました。バルセロナにある老舗チョコラーテ屋さんでは、店の奥で大きな石臼がいつも回っていました。板状のチョコラーテはそのままかじって食べてもいいと教えられ、砂糖がジャリジャリするチョコラーテを食べることもありました。無骨な味わいは、まさに大航海時代を思わせてくれました。

ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン=メキシコ)生まれのスペイン人により、1565年にフィリピンまでの航路が確立されると、スペイン国王フェリペ2世にちなんでフィリピンという地名が生まれました。そして、ヌエバ・エスパーニャの支配下にあったフィリピンには、スペインだけでなく、マヤ・アステカ由来のものも流入したのです。たとえば、チョコラーテ味の「チャンプラード」は、フィリピンでは、主材料のトウモロコシが米に代わり、チョコレート粥「チャンポラード」として根付いています。

徳川家康や伊達政宗は、このアカプルコ・マニラ間を行き来する船が領地に寄港するよう、ヌエバ・エスパーニャやスペイン本国との接触を図っていた時期もありました。

「お菓子の窓からのぞいたら」第31回 新潟日報2016年11月3日掲載 




コメント

人気の投稿