「かせいた」と「マルメラーダ」  「お菓子の窓からのぞいたら」第9回 

左から、曲げ物に入れた手製のマルメラーダ、小ぶりなマルメロ、フランス・オルレアンの「コティニャック」。煮汁からできるジュレを強く煮詰めた堅飴状で、喉飴として小さな曲げ物から直接なめる


高山右近が禁教令によりマニラへ追放されるにあたり、細川忠興に宛てて書いた別れの書状が細川家・永青文庫に、その草稿が七尾・本行寺に残ります。

このふたりの戦国武将はともにキリシタンの妻を持ち、利休を師と仰ぐ茶人でもあったからか、親しい間柄だったようです。高山右近は柿を好んだと伝わりますが、細川忠興のほうは、南蛮渡来のマルメロにこだわりをみせました。

細川家では「丸メラ」「榲桲(おんぼつ)」と呼ばれたマルメロは、香りがたいへんよく、喉の痛みを抑えるなどの薬効もあるのですが、そのままでは固くて食べられません。しかし、軟らかく煮た果肉をすり潰し、白砂糖と一緒に煮詰めると、日持ちのよい、さわやかな酸味のマルメロ羹になります。それを平たい曲げ物に流し固めると、「かせいた」ができました。そして、熊本藩細川家の献上菓子となっていったのです。

現在、細川家には「明治十七年製」と墨書された曲げ物が2つ、「かせいた」として現存します。和紙でしっかり目張りされており、持ち上げると中でカタカタ音がするそうです。

また一方、熊本銘菓として販売されている「加勢以多」があります。マルメロと性質が似ているカリンを使い、細川家の九曜紋の焼き印が押された薄種でカリン羹をはさんであります。このような形態上の劇的な変化は、明治時代後半のことだそうです。


細川家の九曜紋の焼き印が押された、カリン製の「加勢以多」(熊本・香梅)。
現在、本店での店頭販売のみ再開。マルメロの花びら、産毛の生えた若葉と一緒に

その名はポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメラーダの箱)」の「カイシャ・ダ」が「かせいた」となったとする説が一般的です。しかし、もっと広く「カセッタ」「カシータ」など、小箱を意味する南欧語も視野にいれたほうがいいかもしれません。

その製法は、「マルメラーダ」「メンブリージョ」「コトニャータ」などと呼ばれるヨーロッパのマルメロ羹と同じです。「かせいた」は南蛮菓子のなかでも、確かで広いルーツを持つわけですが、と同時に、いくつかの不思議も持ってます。

たとえば、植物名を「丸メラ」と聞き綴っているにもかかわらず、菓子名は「マルメラーダ」ではないこと。細川家だけがマルメロにこだわってつくり続けていたこと。こだわりのマルメロ羹であるのに、菓子名は入れ物のほうを指していているらしいことなどです。

しかし、そんな不思議を吹き飛ばすような発見がありました。白砂糖をたっぷり使うマルメラーダは、同時期のヨーロッパでも贅沢品でしたので、いくつもの静物画に描かれていました。それらの絵を見ると、「小箱=カセッタ=かせいた」はどれも日本と同様、曲げ物だったのです。

初冬に出回るのを待って長野県産マルメロを求め、現在も南欧の家庭でするように手づくりしたマルメラーダを曲げ物に入れて仕上げると、果たして静物画の質感とそっくりに! ヨーロッパでも、今は四角い羊羹スタイルが主流ですので、意外な発見でした。

 曲げ物入りマルメラーダが描かれた絵で一番素敵な作品は、17世紀のイタリアの画家・パオロ・アントニオ・バルビエリの作です。実はこの作品、2001年に新潟市美術館で開催された「イタリア静物画」展に来ていました。図録にも掲載されています。

熊本藩では、藩御用の丸メラを走潟村(現・宇土市走潟町)で栽培していました。ところが、1792年5月に発生した雲仙岳の火山性地震と津波で、丸メラの木がすべて流出してしまいました。しかし、走潟村庄屋政右衛門の努力で無事復活なったことも記録に残ります。そのような歴史を秘めたマルメロ栽培ですが、御用もなくなり、途絶えていました。ところが、2年前に「走潟マルメロ会」が発足し、再度復活しているそうです。現代の政右衛門さんたちが、今回の震災もなんとか乗り越えていかれますよう。

「お菓子の窓からのぞいたら」第9回 新潟日報2016年6月2日掲載



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