「アルフェニケ」の歴史 「お菓子の窓からのぞいたら」第4回

 

砂糖細工の頭骸骨「カラベリータ」(制作:ガブリエラ・ワタナベ)と、キリストの象徴である子羊。
どれも「アルフェニケ」。




 「アルヘイトウ」の名を耳にしたことはあるでしょうか? 砂糖を飴状に煮詰め、さまざまに成形する南蛮菓子です。成形方法が違う「金花糖」「カルメラ」などもこのバリエーションとされてきました。

有平糖のたんぽぽ・れんげ (京都・亀廣保)と、
金花糖の少女たち。昔の13歳になった子供の「十三詣り」を思わせる(金沢・加賀銘菓の越野)


「有平糖」のルーツはポルトガルのテルセイラ島にわずかに残る「アルフェニン」や「アルフェロワ」であるとされます。

その一方で、金花糖も含む日本のアルヘイトウに一番近いのが、メキシコの「アルフェニケalfeñique」です。にわかには信じがたいかもしれませんが、歴史を見れば必然の結果といえるのです。

私の夫は10年ほどバルセロナで生活していたため、私も東京と往復する生活を3、4年経験しました。スペインといってもカタルーニャ地方だけですが、カトリックの行事菓子に興味を持ち見て歩きました。そして、南蛮菓子のルーツといわれる菓子が、ほぼそのままの姿で存在し、かつ現役であることに心底驚いたものです。

南蛮菓子が日本へ盛んに流入していた頃、ローマを目指して海を渡った天正少年遣欧使節は、当時ポルトガル王でもあったイスパニア王にも謁見しました。

このスペイン・ハプスブルグ家のフェリペ2世は、「太陽の沈まない国」と謳われた帝国を束ねていました。その領土は、日本人が「カステラ」と聞きつづった「カスティリア」だけでなく、現在のスペイン全土、ポルトガル、オランダ、ベルギー、シチリア、モロッコ、フリピン、メキシコなどへと広がり、帝国の版図はまさに世界地図でした。

しかし、それまでのイスパニアといえば、8世紀から15世紀までイスラム帝国の支配を受けていたのです。日本でいえば、奈良時代から戦国時代直前まで! 長いレコンキスタの戦いにより、イスラム勢力を完全に撤退させるまで、実に八百年近くもその影響を受け続けていたのです。カタルーニャは最初の百年弱ですが、アンダルシアは最後まででした。

しかしその結果、アラビアのすぐれた技術をたくさん吸収しました。砂糖きびの栽培と精製、糖菓の製法も、すべてアラビアの技術でした。そして大航海時代になると、国土回復どころか、今度は領土を拡大しに海を越えて出ていったのです。砂糖生産は本国ではなく、新(ルビ・ヌエバ)イスパニアと呼ぶメキシコなどで行いました。新大陸にはなかった砂糖きびと労働力としてのアフリカ人を海路で運び込み、プランテーション化したのです。

そうした歴史があって、メキシコには日本の金花糖そっくりの製法も残りました。それは「イスパノ・アラベ製法」といわれ、アラビア発祥の技術であることも伝えられています。そして、有平糖や金花糖のような砂糖細工を「アルフェニケ」と呼んでいます。

「アル(al)」は、アラビア語の定冠詞なのですが、アルコール、アルカリなど、一つの単語に組み込まれ、すでにスペイン語化しています。日本語における漢字のようなものでしょうか。

侵略者のカトリック信仰を受け入れたマヤ・アステカの人たちですが、古くからの先祖を祀る日の習慣は捨てることはありませんでした。依り代であった亡き家族の頭蓋骨を、当時とても高価だったアルフェニケに替えて飾るようになったようです。

七つの海を渡り、世界中を巻き込んだ巨大製糖産業の悲しくも甘い歴史を、特別な日にだけつくられてきた砂糖菓子が教えてくれています。

「お菓子の窓からのぞいたら」第4回 新潟日報2016年4月28日掲載 

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