いとおかし*越後長岡のお菓子*ふきよせ

写真の一番下のオレンジ色のが、長岡の「ふきよせ」の名残。他は同じうき種(かるやき種)のお菓子たち。
上左から平戸で売られていた熊谷製、秋田で売られていた岐阜製、

「ふきよせ」と聞いたら、和菓子に詳しい方はきっと、

銀杏の葉や実、紅葉、松ぼっくりなどが美しく象られ、風に吹寄せられ集められたような、とりどりのお干菓子を思い浮かべるでしょう。


それとは違い、ここで言う「ふきよせ」は、

私が子供時代に好きだった、駄菓子というには少し上等の

長岡周辺の人たちには昔懐かしいお菓子のことなのです。

しかしなぜ「ふきよせ」とう名前なのか?はいまだ解明できません。


全国的に、この「うき種(かるやき種)」の菓子はつくられていました。

その名残に時々出会うのですが、大量生産するようになった分、味は落ちています。

本来は生地を寝かすことによる「熟成」「乾燥」の工程があるため時間がかかる菓子です。

こうしたお菓子はどれも、昭和40年代を境にだんだんと姿を消してしまっています。


長岡だけでなく、新潟県内あちこちでつくられていたと思われる「ふきよせ」は、

味を知っている少し年配の方なら、「あー、おいしかったわよねー」と

食べた時の食感を思い出されます。

現在は、ほとんど見かけなくなったのですが、記憶に残るやさしい味わいなのです。

口に入れるとサクッとしたあと、口の中で砂糖蜜とともに溶けていきます。

この軽くはかない食感は、もち米からつくられる「うき種」の菓子の特徴です。


「まいだま」を焼いていた方が「ふきよせ」も焼き、

一斗缶に詰め、背負って卸しにきていたと、

小千谷のお菓子屋さんにお聞きしたこともありました。片貝の方だったそうです。

現在長岡周辺にはもうない「ふきよせ」。柏崎で一軒、昔ながらの味で「ふきよせ」の名残をつくられています。

私が懐かしい「ふきよせ」はもっと薄いベージュ色で1色だけでした。


昔の「ふきよせ」の軽いサックとした食感はどうやってつくられていたのだろうか?と

ずっと心に止めていると、何度か「似たもの」に遭遇することがありましたし、

そのうち、これがただの懐かしい菓子というだけでなく、昔は献上菓子だったこと、

韓国の菓子にも類似点を感じ、私の中で「ふきよせ」に対する思いもが膨らみました。

その韓菓については「油菓」のページでご覧ください。


オレンジのは「ふきよせ」、ピンクのいら粉のパフ付きが、韓菓の「油菓」。白いものは弘前の「冬夏」。

写真でよく膨らんだ様子がわかると思います。餅生地のよしあしで、口どけ感も違います。

白いものが、本当に!よくぞ江戸時代からの製法でつくっていらしたと感動した、

弘前の大坂屋さんの「冬夏」。うき種(かるやき種)の極上品です。

子供の頃の「ふきよせ」と比べ、大坂屋さんの「冬夏」がいかに素晴らしいかを実感。


そして越後では、献上菓子の製法が庶民の菓子へ引き継がれ、

贅沢な味わいを子供までが楽しめていたことに、

弘前で、大坂屋さんご主人とお話させていただく中で、思い至りました。


こうした菓子が広く浸透するには、糯米、砂糖が入手しやすい状況ににあること。

そして菓子製造に携わることのできる人手など、いろいろな要があったと思います。

上杉家が越後から、会津、米沢へ移り、それ以後大きな大名家がなかったことや、

豪農といわれる民間の財力なども、御留菓子にならずに大衆化した要因かもしれません。


驚くことに、江戸時代を通して、越後は江戸より人口が多かったといいます。

それだけの人の手があってこそ、米作りにも菓子づくりにも、

手間を惜しまずよいものをつくれたのではないかと思います。

新潟日報夕刊エッセイにも「ふきよせをたどって」という一文を書きました。

コメント

人気の投稿