いとおかし*修道院のお菓子*マダレナ(マドレーヌ)
「いとおかし*修道院のお菓子*マダレナ(マドレーヌ)」2010.1 より転載 © le studio massako mizoguti
マドレーヌというお菓子は、日本人にもとても馴染みのあるお菓子ですね。
私が小さい頃、母が買ったばかりのガスオーブンで焼いてくれたのもマドレーヌ。
マドレーヌはその味も呼び名も優しく、懐かしい気持ちになるのは、プルーストだけではないようです。
写真のマドレーヌは、広島でフランス菓子教室アトリエココを主催する友人の作です。
彼女とはもう20年来のおつきあい。その出会いは、私がバルセロナでの1日だけの和菓子展をなんとか終えて、開放された気分でパリに着いたその日。
その頃マカロンがおいしいと地元で評判だった「カレット」の店先、隣り合ったテーブルでした。
カステラのルーツでもあるスペインのビスコチョのページでも少し触れましたが、スペインにもマドレーヌ(聖マグダラのマリア)の名前がついた「マダレナ」というお菓子があります。
南蛮菓子への興味があった私は、何度かのスペインに滞在の折には、現地の菓子を注意深く見ていたつもりでしたが、
先にフランス菓子に馴染んでしまった私は、うかつにもフランスと同じものがあるのね、と軽く流してしまっていました。
ところが、2年前ビスコチョのページを作ろうと、ぴっぱり出した資料「Conducho de Navida」に「マダレナ」を発見してビックリ。
「Conducho de Navida」は、スペイン王フィリペ2世の料理人が1585年のクリスマスの宴会の献立と製法などを書き記した本で、前年にフィリペ2世に謁見した天正遣欧少年使節の4人の少年たちのことも書かれています。彼らの名前、どの国(藩)の王の使いであるか、さらに彼らが箸を使うこと、ローマへ向けて乗船した日にちまで記録されています。
この時、スペイン・ハプスブルグ家のフェリペ2世は、シチリア王、ポルトガル王、ナポリ王、スペイン領ネーデルラント統治者、ミラノ公、イングランド王を兼ねた、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国の王で、スペイン帝国最盛期の国王でした。
この「クリスマスの覚書」という記録の中に「Madalenaマダレナ」が含まれていたのです。
配合・手順を見るとマドレーヌ!? 目から鱗でした。
マダレナについて書かれている部分です。 |
王の料理人が随行して出かけた女子修道院で出されたようです。
この時が日本人とマドレーヌの最初の出会いだったかもしれないと考えると胸が躍ります。
形は不明ですが「小さなお菓子」とあります。
この時代、大ぶりで切り分けるタイプが多かったと思われるので、1つをそのまま手に取れる愛らしいお菓子は、王の料理人にとってもまだ珍しかったため記録したのかもしれません。
ビスコチョと同じように、紙の「ケース」に流して焼いていたようです。
宮廷菓子だった菓子が、一般に広まるまでには、砂糖や小麦、卵を潤沢に使え、窯を持っていた修道院で焼かれていたと考えられます。
そして、ビスコチョやチョコラーテのようにスペインからフランスへ入り、洗練されたのではないでしょうか?
日持ちがよく旅の間も持ち歩いたとされるマドレーヌ。フランスではその形がほたて貝だということもマドレーヌの道がサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道と重なってくるように思います。
巡礼の道をともに歩いたマダレナ。帆立貝はもまた長い距離を移動する貝だそうです。
フランス人は巡礼から無事帰った時、その思い出として、聖ヤコブの日に、サンチャゴ(聖ヤコブ)のしるしである、帆立貝の形に託してマドレーヌを焼いたのではないか?と想像します。スペインには帆立貝の形のマダレナはありませんでした。
16世紀のスペインの修道院や宮廷で好まれたマダレナが、18世紀フランスでつくられるようになったマドレーヌと網の目のように伸びた聖ヤコブの道でつながっているように思えてなりません。
古い菓子ほど信仰とは切り離せません。
生きていくことが厳しい時代に、菓子は特別な時、敬虔な思いとともにいただくものであったわけです。
だからこそ、聖マグダラのマリアの名を戴いた、古くから変わらぬ菓子が今も愛されているのだと思います。
今年2010年は、聖ヤコブの日7月25日が日曜に当たる「Xacobeoシャコベオ」ヤコブ聖年です。
一番上の写真のバックに写っているのは、2007年の大阪の国立民族学博物館の展示「聖地★巡礼 自分探しの旅へ」の図録表紙(部分)です。
いけばな小原流『挿花』2015.7掲載
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