新発田「菊谷」創業400年目の新しい御水飴
信長、秀吉に仕えた溝口秀勝は加賀大聖寺藩から、上杉が会津へ移封の後の
越後新発田藩へ。出入りの商人までも連れての移封だったといわれている。
この「御水飴」の菊谷さんも、少し遅れてとのことだそうだが、
大聖寺より新発田へ移ってきた。創業慶長18年(1613)という。
瓢箪型の水色の最中種に、米飴「御水飴」を詰めた「天与の飴」という名の飴最中は
創業400年を記念してつくられた。
菊谷さんの家伝書にある、役小角(えんのおづね)が天から授かり、村人の病を直した
とされる瑠璃色の壺に入った水飴の話に因んでつくられたそうだ。
瑠璃色と聞き、瑠璃光でいやす薬師如来、その薬師如来の持つ薬壺を思い浮かべる。
最中種は焼き色をつけないように焼かれるため(白焼き)、香ばしさには欠けるけれど、
瑠璃色を表す最中種が、中の米飴の深みのある色あいを引き立てている。
越後新発田藩へ。出入りの商人までも連れての移封だったといわれている。
この「御水飴」の菊谷さんも、少し遅れてとのことだそうだが、
大聖寺より新発田へ移ってきた。創業慶長18年(1613)という。
瓢箪型の水色の最中種に、米飴「御水飴」を詰めた「天与の飴」という名の飴最中は
創業400年を記念してつくられた。
菊谷さんの家伝書にある、役小角(えんのおづね)が天から授かり、村人の病を直した
とされる瑠璃色の壺に入った水飴の話に因んでつくられたそうだ。
瑠璃色と聞き、瑠璃光でいやす薬師如来、その薬師如来の持つ薬壺を思い浮かべる。
最中種は焼き色をつけないように焼かれるため(白焼き)、香ばしさには欠けるけれど、
瑠璃色を表す最中種が、中の米飴の深みのある色あいを引き立てている。
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